産地のレジェンド職人#3~福田手袋~
2021.06.02
tet.が産地で出会う人たちにお話を聞いてご紹介するインタビュー企画です。
この産地で何十年も積み重ねられてきた、人のいとなみ、それ自体もまちの文化。産地の中で働く人々の姿を、残していきたいと思いスタートしました。(産地の人々のこと→)
新しく、若く、変化に富んでいることの良さも、ずっと変わらないことの良さも、いろいろな気づきを伝えていけたらと思います。産地の希望である若手や、このメーカーにこの人あり、という産地のレジェンドをまずご紹介していきます。
“職人さん”と聞いて、思い浮かべる人物像はどんな人でしょうか?
以前たまたま友人と話していたとき、ひょんなことから手袋のまちの職人さんの話に触れることがありました。私が、手袋職人さんには女性が多いんですよ・・・と言ったとき、“意外!勝手なイメージだったけど、てっきり男性が多いのかと思ってた”と、返答が。
普段手袋の産地に身を置いてものづくりの現場に接している私にとって、女性職人さんがあちこちで活躍していることは当然のような感覚でしたが、確かに人によって抱くイメージは様々であるし、Google画像検索で“職人”と入力して表示される画像の大半は男性ということからも、職人の世界は男社会というイメージの方が強いということを実感する出来事でした。
しかし事実、手袋の職人さんには女性が多いです。
単に多いというよりも実質、産業を支えているといっても過言ではありません。
歳を重ねるごとに成長できる職人の仕事。女性職人さんの働き方や年齢の重ね方、しなやかさ、そんな姿を伝えたいなと思い、今回は女性職人にスポットを当てました。
産地で100年以上の歴史を持つ福田手袋株式会社で活躍されている、(写真左から)
岡本かず子(おかもと かずこ)さん(以下、岡本さん)
播磨加代子(はりま かよこ)さん (以下、播磨さん)
坂東享子(ばんどう きょうこ)さん (以下、享子さん)
増田寿子(ますだ としこ)さん (以下、寿子さん)
です。
(以下は普段社内で呼ばれている呼び方で記載します)
4名とも、手袋職人歴は約半世紀の大ベテラン。
福田手袋さんでは、縫製職人は総勢12名、全員が女性です。その女性職人たちを束ね、引っ張っている、4名の職人さんにお話をうかがいました。
働くきっかけ ~勢いのある手袋産業~
働きはじめたのは、播磨さん、寿子さんは中学を卒業した年の15歳、岡本さんは20歳のときでした。
“当時はもうそら、手袋は盛んでどんどんと勢いがあってね。まわりみーんなが手袋がいいよって。”
手袋会社も当時は今よりたくさんあり、さらに家々でも手袋を縫う仕事や内職仕事があった環境で、同世代の女性も手袋職人の道へ進む方は多く、違和感なくその道を選択したそうです。
播磨さんと寿子さんは近所だった福田手袋へ入社し、岡本さんは隣町の手袋会社での勤務を経て、今に至ります。
享子さんは実は、福田手袋の創業者の娘さんでもあります。小さいときから、摘み返し(※1)や引っ込み(※2)などの手内職の仕事はよく手伝ってきました。家業が手袋業ということで、ごく自然な流れで手袋の道を歩みはじめました。享子さんも働き始めたのは20歳のときでした。
※1:摘み返し・・・縫製したあとに、不要な生地の部分を綺麗にカットし表に返すこと。
※2:引っ込み・・・縫製糸を表から見えないようにきれいにする始末のこと
とにかく必死で縫った養成期間
基本的にはみんな未経験からのスタート。
まず入社後3か月間は養成期間があり、簡単なものからはじめて少しずつ慣れていきます。
“昔は、受け取り(出来高制のようなもの)やったから。最初の3か月間は養成期間やけん会社が持ってくれたけど、4か月目からは自分が縫った分だけ給料がもらえる。上手に縫えてないものは数に数えられんし、腕をあげんとお給料に直結するけん、ほんまにみんな必死で覚えて必死で縫ったんよ。”
と、当時を振り返る寿子さんの言葉にみなさんそうそう、と頷きます。
綺麗に出来上がった数でお給料が決まるという厳しさを、中学を出たばかりの女の子が歯を食いしばって乗り越えていくたくましい姿を想像すると、積み重ねてきたものの強さ、土台の強固さを感じます。
その時代はどの工場でも同様で、腕を上げるべくみんな必死で取り組んだと聞きます。
職人の育成スタイル
3か月間の訓練を経て独り立ちとなる4か月目といっても、流れるような手つきで思いのままに縫えるようになるわけではなく、だいぶ縫えるようになってきたなと自分で実感を伴って感じられるようになったのは1年ほど経ってからだったそうです。
“やっぱりうまく縫えるようになったら楽しいなあと思ったけど、それまでは苦しかったなあ。”
と振り返る播磨さんに、うまくいかなかったときの対処方法をたずねると、
“そんなときは先生に聞くんよ。若いころは、先生がひとりひとりについとるから。”
いわゆる学校のような先生と生徒というような感じではなく、ベテランの先輩が自分も縫いながら教育係も兼ねるというような形です。多くの場合は1対1。今もその形は変わらず、新人さんにはベテラン職人さんがサポートに入って、育成します。
“今は一番若い子で23歳かな?もう3年目くらいになってて結構縫いよるね。去年の冬くらいに入った、小さいお子さんがいる30代の子もおるよ。”
と、若い職人さんも徐々に増えています。
今は教育する立場になっているみなさんですが、時代の変化とともに、かつて経験してきたような出来高制ではなくなっている今、それに伴い教え方などに変わったところはあるかを聞いてみると、
“教え方はやっぱり一緒よ。自分らが教えてもらったようにしっかり順を追って。でも昔に比べたら、ひとりに対してはものすごくじっくりやね。その人の覚え方やスピードに合わせてね。”
次の世代へと変わらぬ技術をしっかりと受け継いでいくために、その方法は時代に合わせて少しずつ変化している様子も窺えました。
ライフステージに合った働き方も
若い頃から仕事をはじめられていますが、結婚や出産、子育ても経て今に至ります。
“私は子どもができたあとは、子どもが中学生くらいになる頃に戻ってきました。”
という播磨さん。少し長めにおやすみをして、子育てに専念し、落ち着いたら戻ってくるというのも、縫製技術という、手に職があるという職人さんならではの選択肢なのかなと思いながら聞いていたら、
“出産後は、会社へ出勤するのをおやすみさせてもらって、ずっと家で縫ってたんです。家にはミシンはなかったので、会社が貸してくれました。”
当時は、子どもができたら家にミシンを移して、家の一角に作業スペースを作って、子育てとのバランスを取れるペースで仕事をするというのがよくあることでした。なんと最先端の在宅勤務です。
産後も結構すぐに縫ってた?と昔のことを質問しあいながら会話が進みますが、遠い昔のことでどうだったか・・・とお互いに笑いがこぼれます。
“子どもが寝てる間にもちょこちょこできるし、そうしてるうちに保育園に行き始めるから、そうしたら少しずつ仕事も増やせるので。そうやって手を止めんと仕事はして、子どもが成長して大きくなったら会社に戻ってくる、みたいな感じでした。”
ミシンは座り仕事のため、妊娠中や産後の体調なども様子を見つつ、自分のペースをつかみながらできるのがいいところ。そうはいっても、手を止めていた時期がなかったということですよねと驚いていると、“うんそうやねえ。”とごくごく自然な返答。今は産休や育休などの制度がありますが、昔からそういったライフステージに合わせた柔軟な働き方が手袋産業にはあったのです。
熟練職人にもうまくいかないときがある
昔と今の変化として、育成スタイルに加えてもう1つ、デザインの難しさがあります。
“昔はシンプルなんが多かったんですよ。今はデザインが細かいでしょう。細かなリクエストがあって、常にデザインが移り変わるというのもある”。
“それに昔は指先がもう少し丸かったかな。今はよりスマートでフィットするようなんが多いかな。”
さらに使う生地も進化し、種類が増えていることや、生産が国際的に分業されるようになり、日本製と謳うだけの質の高さや、付加価値の表現などが求められるようになりました。
熟練職人でも難しいことはありますか?と尋ねると、みなさん即答で“あります、あります。”と。
デザインが難しいときや、生地のちょっとした伸縮性の違いなどによって、手が覚えてきた感覚が逆に邪魔をしてしまうことや、頭ではわかっていても何かがうまくいかない、ということがあるのだそうです。
“そんなときは、ほんま落ち込むわあ。この年になっても、落ち込む落ち込む。ついこないだも・・・。”
とちょっとしょんぼり気味に言う岡本さんに、“あったねえ~、あったあった。”とみなさん笑いながら応じています。
そんな場面では、どう乗り越えていくんですか?と尋ねたところ、
“あまりにいかんかったら、播磨さんや寿子さんたち周りの人たちに聞きながら。
そうしていくうちに直っていくんよ。”という岡本さんに、
“そうそう、みんなでアドバイスし合いながら。考えても考えてもうまくいかんときはあるし、時間が経つだけやしね。”とみなさん。
熟練、若手と関係なく、行き詰まったら共有して、対話しながら解決をしていくスタイルは共通している様子です。
職人のイメージというと、(※もちろん個人差はありますが)寡黙で言葉数が少ない、というキーワードが上がりがちです。肌感としてもそういった方は確かに少なくはありませんが、継承という場面では時に言葉の少なさが課題となってしまうこともあるといいます。
そんな話をしていると、
“変なプライドは持つ必要がないですよ。教えるときには優しくします。”と、出し惜しみしないスタンスは当然ですというように享子さんが気持ちよく言い切っていました。
そういえば、テトがはじまった2年目のころ、福田さんと春夏用のUV手袋の企画をしていたときのこと。
福田さん特有の、生地を縫い合わせる特殊なステッチが素敵で、それを採用させていただいたのですが、実は当時、その特殊なミシンを扱えるのが享子さんだけでした。
特定の1人しかできないといったような技術は、さまざまな伝統産業の中でたまに耳にすることがあります。
その希少性に対して感じる高揚感のようなものと、その人ができなくなってしまったらどうなるんだろう、という寂しさのような、不安な気持ちが当時の私にもありました。
ですが、さらにそのあと2年たったくらい、ちょうど今からは1年前くらいだったと思います。
現場を訪れたときにタイミングよくそのミシンが稼働中で、若い職人さんが一人で手掛けていて、心の中でほっとした気持ちになったことを覚えています。
その話には、“うん、教えたからもうできるようになってきているね。”と、さらりと答えてくれました。
女性ならではのおしゃべり好きや、お世話好きなどといった特長は、職人を多く抱えるものづくりの現場において、教えあい助け合う空気づくり、体制づくりに大きく影響を与えてきたのではないかと思います。
聞く側も、教える側も、たくさん質問する、実践とともに言葉にしてたくさん伝えるというのは、技術の継承には欠かせない要素なのだと、改めての発見でした。
必要とされるということ
休日の過ごし方を尋ねると、
“やることがいくらでもあります。家のこともせないかん、孫も遊びに来る、犬や猫の世話もある。何だかんだと忙しい。”とみなさん口をそろえていました。
“でもね、私たち一旦は引退してるんですよ。定年はとっくに過ぎてるんだけど、でもここで働かせてもらっています。”
“自分たちのことを頼りに、来てくれと言われることはありがたいですよ。”
“家でもいろいろする仕事がある。そしてここへきても仕事をする。メリハリがあって、毎日ハリがあります。働いていたら元気でいられます。だって、私たち同じ世代の人たちの中だとちょっと・・・若いでしょう?(笑)”
と体を揺らして笑い合う姿はとってもチャーミングでした。
まだ先を走る先輩たちの姿
一通りお話を聞き終わったあと、社長がこんなお話をしてくださいました。
昔のような出来高制ではなくなっている一方で、意識しなければいけないこともあります。
オートクチュールなど1点ものを作るのではなく量産品を作っているわけなので、当然各職人さんのスピードと生産効率は意識する必要があります。
そのためには、年に1回くらい職人全員で一斉に同じものを縫う、実力テストのようなものを実施しているそうです。
そこで自分の実力を実感し、1年前よりレベルアップしているなと自信につなげたり、もっと頑張ろうと気持ちを引き締めたりしますが、
“毎年あの4人が絶対トップ3に入るからね。”
親子以上に年の離れた先輩たちの、圧倒的な実力を見せつけられ、若手職人さんたちも尊敬の気持ちをもって、みんなで頑張ろうという気持ちにもなれるイベントなのだそうです。
難しく緻密なデザインも、さらにスピードと正確さ勝負も。
トップをひた走る熟練の職人たちはまだまだ第一線で超活躍中です。
時代とともに更新されていくデザインや難しい技術と向き合い、日々チャレンジをし続けること、若い世代へ技術を教えること、多くの人との関わりあいの中で生きること、そして、必要とされ役に立つこと。
“ほんまに生きがいですよね。”と岡本さんがぽつりと言った言葉に、“ほんまにねえ。”とよどみなく言い合う。
そう言える仕事に出会うことは、すごく幸せなことではないでしょうか。
しかし、世の中みんながみんなそういうわけではありません。必要とされて、そして役に立つというシンプルなことが、自分たちの人生でどれくらい実感できるのだろう、とふとそんなことを思うと、確かな実感を持って働き続けている4名の女性職人さんの姿はとても輝いていて、素敵だなと思うのでした。
今回のお話をうかがったことで、産地の中で受け継がれてきた「働く人の心持ち」に触れることができました。その心持ちがあるから、素敵なものを作り続けることができる。
それが正当に評価され、そして必要とされ、生きがいになっていく。それがずっと続いてきたことなのではないか、と思います。
数々の職人さんのこういった目には見えない心持ちのようなものが、この地域に広く根を張っていて、その見えないけれど確かにある、根っこのようなものが手袋産業をしっかりと支えてきたのだ、ということを改めて知る機会になりました。